今朝はどの局、その番組でも内田裕也さんの訃報を伝えるニュースでもちきりでしたね。
樹木希林さんが亡くなって半年、彼女のあとを追うようにして亡くなった内田裕也さんはその破天荒でロックな生き様で注目されることが多々ありました。
妻で女優の樹木希林さんを筆頭に、芸能一家としても知られる内田裕也さんを知っているという人は世代を問わず多いですが、意外にも内田さん自身の両親や兄弟について知っているという人は少ないのではないでしょうか??
また、ロックンローラーという肩書を持つ内田さんですが、代表曲やヒット曲を知らない人も多いですよね。
今回は内田裕也さんの兄弟や代表曲のほか、彼のロックな伝説などをまとめてみました!
内田裕也の兄や姉は?家族のプロフィールを紹介
若い子でも「ロングの白髪にサングラス、“ロックンロール”が口癖のおじさん」と言えば何となく伝わってしまうほど幅広い世代から知られている内田裕也さんですが、意外と詳細を知らない人(特に若い子)も多いですよね。
というわけで、まずは内田裕也さんのプロフィールをまとめました!
内田裕也(本名:内田雄也)
生年月日:1939年11月17日
出身:兵庫県西宮市
血液型:B型
兵庫県西宮市で生まれた内田さんですが、育ったのは大阪府堺市だそうです。
中学時代は意外にも真面目な優等生タイプで、生徒会副会長も務めていたそうですよ!
あの破天荒な言動からは全く想像ができませんね(^^;)
中学ではラグビー部、高校では野球部に所属していたそうですが、高校時代にエルビス・プレスリーに憧れ、旭高等学校を中退。
1956年、大阪府立三国丘高校に転校し、高校卒業後は日本大学法学部の夜学に進学しますがこちらも中退。
あれで法学部だったんですね。というかちゃんと大学進学したんだ……中退してますけど(^^;)
色々驚きとツッコミどころが多いですが、バンドボーイ兼ヴォーカルとしてロカビリーバンドのブルーキャップスを佐川満男さんとともに結成、1959年に渡辺プロダクションに所属し日劇ウエスタンカーニバルに初出場します。
その後、サンダーバード、レッド・コースターズ、ダブル・ビーツなどのバンドを渡り歩き、紆余曲折を経て麻生レミさんをヴォーカルとしたフラワーズを結成、ジャニス・ジョプリンやジェニファーエアプレインなどのカバーを中心に活動を展開していきます。
その後、音楽活動だけにとどまらず、俳優活動や脚本、映画監督など、幅広いジャンルで活動し、お馴染みの“内田裕哉”として芸能界に君臨することになります。
だいぶ、いやかなり経歴を端折ったんですけど、何せ色々なことに手を出してきた人なのでまとめるのが大変で……
まぁとにかくいろんなジャンルで才能を発揮してきた人なんだなって言うのと、少年時代は真面目だったということがわかっていただければいいかなと思います(*^^*)
さて、プロフィールはこの辺にしておいて本題・内田裕哉さんの家族についてです!
妻は樹木希林さんで娘の内田也哉子さん、娘婿は本木雅弘さん、孫はパリのランウェイでモデルデビューしたUTAさんとそうそうたる顔ぶれの芸能一家で知られる内田さんですが、内田さん自身のご両親や兄弟はどんな人だったのでしょうか??
UTAさんの記事はこちら!
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UTA(本木雅弘の息子)の本名や身長・年齢は?中学高校大学や彼女の噂も
内田裕哉さんは3人兄弟の末っ子だったそうです。
両親と兄一人、姉一人という家族構成だったようです。
お兄さんやお姉さんに関する詳しい情報は見つけられませんでしたが、内田裕哉さんが79歳ですので、お兄さんとお姉さんもかなりの高齢ということになりますね。
ちなみに、ご両親に関しては実はお金持ちなのでは?という噂があるようです。
というのも、内田裕哉さんのご実家は大阪府堺市大美野という場所にあり(現在はなくなっているようです)、この堺市大美野とは現在の堺市東区大美野にあたり、昔から高級住宅街として知られている場所です。
実家はお金持ちで末っ子。
なんとなく内田裕哉さんのあの破天荒というか自由な言動の根っこの部分が見えたような気がしますね(*^^*)
内田裕也の代表曲やヒット曲・伝説や名言も!凄いと言われる理由
何かにつけて“ロックンロール!”を口にし、ロックンロール人生を謳歌した内田裕哉さん。
ミュージシャンであるということは若い世代の子でも何となく知っているとは思いますが、それなら内田裕哉さんの代表曲というか、ヒット曲はどんな曲なんでしょうか??
あれだけ芸能界でも一目置かれるような存在として扱われているのだから、今の若い子は知らなくても昔はさぞやヒット曲を飛ばしていたのだろうと思う方が普通だと思うのですが……
実は内田裕哉さん、代表曲と呼べるような曲やヒット曲がないのです。
物心ついた時にはすでに内田裕哉という人物は芸能界でも顔が広く重鎮扱いされている節があったというのに、なんとヒット曲がないなんて!!
これこそが内田裕哉さんの“ロックンロール伝説”ではないでしょうか。
ヒット曲もないミュージシャンがロック界の重鎮扱いだなんて、そんなことある?って感じですけど、何せ内田さんは顔が広い!!
長く芸能界にいるということもあるのかもしれませんが、内田さんの広い人脈は、ヒット曲がなかったからこそ築けたものなのかもしれませんね。
ちなみにHKT48の指原莉乃さんをフィーチャリングした「シェキナベイベー」という曲を最後に出されています。
ついでにもう一つロックンロール伝説を。
「ビートルズの日本公演で前座に出演」
これも有名な話ですが、1966年6月のビートルズ日本公演の際、内田裕哉さんは尾藤イサオさんとツインボーカルで前座に出演しています。
ヒット曲に恵まれなかった内田さんにとって、当時世界的人気を誇っていたビートルズの前座に出演したというのは偉業中の偉業なのですが、伝説はこれで終わりません。
というのも、内田さんはこの時「なぜ外人の前に日本のバンドが出ると前座と言われるのか」「こっちは本気でロックンロールしているんだ」と前座と呼ばれることを嫌がったそうです。
以後内田さんはビートルズとの共演という言葉を使っています。
まさに彼なりの名言ですね。
何度も言いますが、当時内田さんはヒット曲らしいヒット曲はありません。
対するビートルズは世界的人気を誇るバンドですから、前座で出演できるだけでも十分すごいことなんです。
それを前座ではなく共演だと声を大にして言えるというのはさすが内田裕哉だなと感じざるを得ない出来事ですよね。
オリジナルよりもカバーに重きを置いて活動してきたということもありヒット曲らしいヒット曲はありませんでしたが、彼の人生はまさに“ロックンロール”そのものだったことでしょう。
以上、79年のロックンロール人生を謳歌した内田裕哉さんのまとめでした。